―ウクライナで考えた「継承」という建築行為―

戦争がもたらす破壊は、単なる物理的損壊にとどまらない。瓦礫と化した街並みは都市構造の断絶を示すと同時に、居住者の記憶や地域社会の時間軸をも寸断する。建築はしばしば機能の容れ物として語られるが、戦火を受けた現場を歩くとき、私たち建築人はその前提を根底から問い直さざるを得ない。2025年夏、私は建築の専門家としてウクライナの三地域を訪れた。そこで出会ったのは、爆撃で傷ついた建物群と、その中で日常を懸命に取り戻そうとする人々の姿であった。

キーウ市内では、多数の集合住宅が仮修復の段階にとどまっていた。爆風で砕けた窓はOSB板で塞がれ、崩落したバルコニーや歪んだフェンスが残置されている。都市景観としては痛ましいが、内部では住民が調理し、片付けをし、隣人と挨拶を交わす日常が息づく。建築空間が「使われ続けている」という事実の重み。機能喪失を超えて、人々の生活の「構え」として存在し続けること自体が建築の核心であることを、改めて痛感させられた。建物は壊れてもなお「居場所」としての意味を失わず、むしろ人々の執念によって生かされ続けている。ここには建築の耐久性ではなく、建築を媒介にした人間の生存力そのものが刻印されていた。

カルパティア山脈の麓、被害を免れている地域では、フツル民族の伝統木造建築に触れた。入母屋造の小屋組み、樅ノ木の校倉、釿で刻まれた柱、植物模様の彫刻のある持ち送り、深い大屋根が織りなす景観は、自然との共生を前提とする固有の建築文化を体現していた。これらは20世紀のモダニズムとは異なる、地域の文脈に根差した「文化的根拠」を示していた。建築を構造や形式の体系だけで語るのではなく、時間と人間の厚みを孕む存在として捉える視点を、現地の伝統が教えていた。

さらに今回の視察では、NGOドブリダーレの案内で世話になった。彼らは夫を戦場に送った未亡人や、家族を戦禍で失った人々を対象にカウンセリングや一次避難先の支援を行っている。豊かな自然に囲まれたカルパティアのリチカ村では、同団体が古民家を再生し、心的外傷後ストレス障害(PTSD)やメンタルケアを必要とする人々の居場所を整備していた。この施設は、日本ウクライナ文化交流協会からの経済的支援によって実現したものであり、失われた生活基盤を一時的に補うだけでなく、再生した古民家空間が人々の心の支えとなることを示す象徴的な事例であった。NGO代表者は、今後は施設の拡充や専門的人材の育成が不可欠であると語っており、地域社会における継続的支援の必要性を訴えていた。

こうした取り組みは、伝統建築の文化的価値と現代の社会的ケアが重なり合う場を生み出している。建築は単なる物質的構築物にとどまらず、地域の文化と人間の尊厳を守る「場の装置」として機能しうることを、リチカ村の実践は明確に物語っていた。

西部の都市リヴィウでは、歴史的建築群の修復作業が進んでいた。リヴィウ国立工科大学の保存研究者たちは、第一次世界大戦以前の住宅やヴィラを対象に、外装の復旧にとどまらず、内部の間取りや装飾、さらには近隣コミュニティとの関係性をも含めて再生を試みている。ここで取り組まれているのは、単なるレプリカづくりではない。都市の記憶を未来に繋ぐための社会的機能の回復であり、まさに「継承」の作業に他ならなかった。修復は保存のためではなく、都市の未来を再設計する行為として位置付けられていた。保存修復のヴェネツィア憲章が示す「真正性」の概念が、実務の現場で具体的なかたちを取って現れていたのである。

特に強く心を揺さぶられたのは、リハビリテーション施設「UNBROKEN」の訪問である。戦争によって四肢を失った若者たちが社会復帰を目指すこの場は、医療空間を超えた「ケアの建築」として機能していた。自然光で明るい室内、バリアを感じさせない柔らかな動線、そしてスタッフの人間的な対応が生み出す心理的安心感。建築と人の関わりが一体となってリハビリを支える姿に、空間が持つ治癒力を実感した。しかし同時に、膨大な数の若い男女の障害者の存在は、戦争の虚無を私の心に突きつけた。ここで問われるのは「施設」というハードの提供にとどまらず、人の尊厳を回復する空間をどう構想するかである。

戦争が残した問いは「破壊されたものをどう元に戻すか」ではなく、「どのように継承するか」にある。修復とは単なる復元ではない。失われた文脈を再読し、記憶を未来へと翻訳し、次代を生きる空間を構想すること。これこそが私たち、建築人に託された本質的な役割だろう。被災地で私が見たのは「建築の死」ではなかった。むしろ人間の生を支える建築の持続的な意志であった。空間が再び人を迎え入れるとき、それは再生ではなく「継承」と呼ぶべき行為である。では私たちは、この「継承」の営みにどう関与できるのか。

阪神淡路大震災や東日本大震災で培われた復興の知見は、物理的復旧のみならず、コミュニティの再建や地域文化の継承に重きを置いてきた。仮設住宅の標準化、地域住民の合意形成、復興公営住宅の設計にみられる多様性の確保など、日本の経験は多層的である。 現在、避難先となっているカルパティア地方であるリヴィウ市やトルスカベーツ市などのウクライナ西部都市においても、小規模公共施設の設計協力、現地学生との設計ワークショップ、マスタープランの策定といった段階的な関与が考えられる。重要なのは外来の技術を押し付けるのではなく、現地の文化的根拠を尊重しながら持続可能な復興をともに構想することである。

また、復興は単なる建設行為ではなく、国際協力の枠組みのなかで推進される。大阪府建築士会や大学研究者、民間設計事務所そして企業が連携し、資金スキームや国際機関と協働しながら、多角的に関与する仕組みをいかに構築するかが問われる。震災後の日本で培われた「公共性」と「多様性」を基盤に、ウクライナの再建に寄与できる可能性は大きい。

こうした文脈のなかで、大阪府建築士会とウクライナ建築家連合会がこの度、友好関係の証として覚書を結ぶことには大きな意義がある。戦争で断絶された社会を再びつなぎ直すための「知の架け橋」を築く行為である。建築の専門家が国境を越えて経験や知見を共有することは、文化と人間の尊厳を守る営みそのものに寄与するだろう。

ウクライナの都市や建築は今、破壊と再生の狭間で揺れている。そのなかで私たちに課せられた使命は、断絶を癒やし、連続性を再び編み上げることである。 建築は単なる構築物ではなく、人間の記憶と希望をつなぐ「継承の証」だ。戦禍を越えてなお生きる空間の意志に応答すること。それこそが、私たち建築人に託された責務なのであろう。