1912年の南の大火により焼け出された公娼街が1916年に移設再建された。ここは江戸吉原や京都島原と並んで(どことは証さないが)有名な旧遊郭街である。これまで貸し座席で営んできた廓が廃業したあと、20年ほど放っておかれた空き家を利活用に向け調査を行った。廃業の後、所有者の管理が殆どなかったのであろう、外壁、開口部の傷みに加え雨漏りの様子が酷い上、生活雑貨や家具などの残置物がゴミの山となり殆ど廃墟の状態で残されている。

市街地の建物らしく敷地に目一杯建てられている。街区にある建物の多くは、路に面して玄関を持ちそれぞれが間口3間ほどで軒の出が浅い長屋建てで構成されている。地区の境に位置し街区の角にあるこの建物は、現在では独立建ての中でも大きな廓である。1,2階の床面積が合わせて約300㎡の前庭付き2階瓦葺木造建て。この時代の建築としては珍しく外壁は大壁、箱軒のモルタルが下地となっており、後に防火構造として改修されたのかもしれない。

一階のダンスホール(かつては男客が娼妓とお見合いをするホールと聞いている)の入り口とは別に、建物への玄関は二箇所あり、両入り口は増築された小部屋を除けば2間×2.5間ほどあろう前庭を挟むように位置している。一箇所は明らかに客を迎えるホールであり、2階の客間へ続く階段と勘定場につながった空間が玄関となっている。もう一方は住宅の玄関のようにそれほど大きくはないが、皮付きの桜を施した出隅の飾り柱や網代天井、手水鉢を装った石積みなど手の込んだ設えとなっている。2種類の玄関を使い分け、一方は控えの間に続く娼妓たちの入り口としてや管理用玄関としていたのであろう事が伺える。1,2階に並ぶ建物の主要用途である小座敷は、隣家との間にわずかな明りと通気を取るための光庭?空間が設けられており、僅かなひとときをもてなす客室空間として面子を保ってるかのようである。

小座敷の並ぶ廊下は、路地を模したかのよう。両側に大粒の那智石がぽつぽつと埋め込まれ座敷の踏込まで続いている。そして、小座敷の廊下に面する入り口には垂木を組んだ小庇が腕木で受ていたり、それぞれの座敷ごとに六尺五寸の入り口建具の意匠や化粧枠、塗り回した壁など、職人の腕の見せ所が随所に見て取れる。客室である小座敷は四畳半程度の広さがが大半で、その内側には浅敷の床の間と脇床か書院が各座敷にセットされている。各座敷ともそれぞれの入り口建具や建具廻に見所を施し、床や壁、天井そして天井うめ込みとなった照明器具が艶のある意匠を演出している。

今では観る者の目を見張る妖艶な趣が当時の様子を偲ばせる。有形資産価値の重みと同様に、語り継ぐ建築としてどのように再生を進めるべきか大きな課題である。